Chimpanzee the 38 Parallelの日記

読書感想駄文録。あ、プロフィール写真はボノボです。

第2冊目:朝鮮半島をどう見るか

 

 

第2冊目は『朝鮮半島をどう見るか』(木村幹著

 

本書の概要

 

本書は、そのタイトルどおり「朝鮮半島をどう見るか」ということについて、ステレオタイプを捨てて見てみようと述べている。そして、研究室を訪ねてきた学生の質問に対して事例を交えながら答える形で論が展開されている。

 

では、「なぜステレオタイプを捨てて見てみよう」と主張するのかというと、人々はなぜか朝鮮半島について語る時には、他の国について語る時のように「普通」に語ることができず、何らかのステレオタイプに依拠して語ってしまうことが往々にしてあるからだ。

 

したがって、本書の目的は「朝鮮半島やそこにある二つの国や人々を、世界のほかの地域やそこにある国国(ママ)や人々と同じようにとらえ直す」(P182)ことだ

そのためには、基礎的なデータを確認すること、そして間違った前提があったなら、それを修正して常識を疑うこと、同じデータから違う結論が出たなら、その違いはなぜ生まれるのか、論理の飛躍はないのか、そもそも議論がかみ合っているのかを考えることが大切であると。(P150~152)

 

事例の展開

上記の目的を達成するために、各論点に分けて論が展開されていく。

まず、朝鮮半島を見る際のスタンスを否定的立場〈朝鮮半島の二つの国は問題だらけ、感情優先で非合理的で常に警戒の対象〉と肯定的立場〈隣国だから市民の交流が大切で、そうした交流を続けることで相互理解が進んで新しい関係が作れる〉に分けて、それぞれが持つ危うさについて述べている。どちらも正確には朝鮮半島を捉えられていないと。ちなみに、朝鮮半島研究者でさえもステレオタイプに毒されていて、自身が持つ枠に当てはめて考えてしまっているために、日本の朝鮮半島研究は時代遅れになってきているとも。

 

朝鮮半島の人は民族意識が強いか?

で、事例に話を戻すと、例えば、〈朝鮮半島の人々は「強い民族意識」を持っているか〉という命題について考えてみよう。デモに積極的に参加する韓国人のイメージが思い浮かぶかもしれない。でも、これも筆者からすれば正確ではないらしい。なぜなら、その見た目の激しさに比して、「ほとんどの場合、朝鮮半島の民族運動はその「激しさ」にもかかわらず、それが本来求めたはずの目立った成果を獲得できていない」(P84)からだ。そしてこれは、日本の統治期における朝鮮半島と台湾における抵抗運動のデータからもわかる。さらに筆者は、多くの人が民族意識を持っているからこそ運動のピークには盛り上がって、それが「激しさ」や「強さ」として他者には映るが、実は民族意識と共に「小国意識(注:小国の我々は結局大国に逆らって達成することができない。。。というような意識)」も同居しているために、敵側に甚大な被害与えるに至らず運動が終わることが多い、と述べている(第4演習)。(通貨危機の時の運動を例に)

「植民地支配」についての論争 

また、このステレオタイプっていうのは厄介で、日本統治期についての論争にも大きな影響を与えていると筆者は述べている。

筆者は、日本統治期を肯定的に見るか否定的に見るかってずっと続く大論争だけど、そもそも「良い」、「悪い」で論争することが間違っていると述べている。

換言するなら、経済発展の根拠にした「日本統治はいいこともした」という肯定派の主張も、朝鮮人の経済的困窮を根拠にした「日本統治が誤りだった」という否定派の主張も、どちらも経済的状況にのみ依拠して論じているけど、そもそもそんなに単純に「良い」・「悪い」の判断を下せるものじゃないと(第5演習)。

 

例えば、他国の植民地経営はどうだったのか、日本のみが収奪一辺倒だったのか、戦時体制での動員が本当に他国に類例を見ない常軌を逸したものだったのかということも、その他同時期の例と比較することで実際の姿が見えてくる。ただ、同じデータ(統治期の産米増殖計画による米の生産高と消費量の年代比較)を用いても結論が異なっているのが、まさにこの論争の姿だといえる。

それについて筆者は、「彼らは自らの『命題』を証明できないデータを持ってきて、あたかもそれが証明されたかのようなふりをしている」(P113)と主張している。

 

さらに、植民地支配について論争は避けて通れないのではないか?という学生の質問に対して筆者は、真剣に議論しているように見えるが、互いに「朝鮮半島における植民地支配をめぐる様々な事実さえ、詳細に検討することなく、勝手な思い込み議論しているからだ。日本の朝鮮半島支配の『特殊性』や、さらには日本が『良いこともした』のか、『悪いことをした』のかという結論が、考察の以前に決まっていることが、問題なのだ」(P121)と述べている。

 

日韓関係がこじれた理由

次の事例として筆者は、〈日韓関係がなぜここまでこじれたのか〉について説明している。

欧米の例を見ていると、旧宗主国側は特に旧植民地国に謝罪・補償をきちんと行ったとは言い難いのに、なぜ日韓はここまでこじれるのだろうか。

筆者はこの問に対して、支配側と被支配側の間で互いに敵意を向ける必要がなくなったと認識するための「和解の儀式」がなかったことが原因だと述べている(第6演習)。つまり、日本の敗戦によって突然訪れた「解放」によって、被支配者側(朝鮮)が支配者側(日本)に独立を認めさせるプロセスがなかった、自分たちで勝ち取った独立ではないからだ。

 

また、筆者は、現代の人々にとっては過去の出来事であるために現在の問題としての認識がない。そして自分の生活との関係でその必要性を実感せず、議論が尽くされないならば、互いがいくら未来志向的な声明、賠償、謝罪などを行っても意味がないとしながら、「重要なのは、日韓の間で『共通の歴史認識』が作られることではなく、『これ以上の議論の蒸し返しは無駄だからやめるべきだ』という共通認識が作られること」(P138)だとも述べている。

当時で言えば、このボタンの掛け違いを直す機会が日韓国交正常化だったが、この機会も活かすことができず、棚上げしたために、現在に至っていると。

 

この後、最後の事例として北朝鮮についての考察の章があるんだけど、自分で考察しようというスタンス(詳細な分析がなされているけどね!)なので、割愛。

 

感想 

ここまで読んだ感想としてまず挙げられるのが、「自分はステレオタイプなんて持たずに朝鮮半島を見ている!」と少しだけど考えていたのが、ステレオタイプに支配されてたってこと(笑)

色んなデータがあるのに、そこからしっかりと分析せずに論じていることが特に朝鮮半島については多いなぁというのは本当に痛感した。「●●なイメージあるよねぇ」と言いつつ、そのイメージを一次資料から実証する大切さを学んだなと。

 

議論をするときの前提理解の重要性

それに、特に日本統治期については、経済発展と善悪がごちゃまぜになって議論されているというのは本当にそう思っていて、これが余計にかみ合わなくなっている理由なんだと思う。

例えば、日韓で議論を重ねても、結局、「溝を埋めることができませんでした~」ってことは政府、学者、その辺の学生から居酒屋の政治談議に至るまで溢れていると思うんだけど、そもそも、その議論において「双方が何に重きを置いているか」を日韓ともに共有しないまま議論するから毎度毎度こういうことになるんだと思うんだよね。日本はファクトを重視するのに対して、韓国は「こうあるべきだった」という視点が強い(韓国語ではよく「正しい○○」という表現がなされる)。で、日韓の歴史認識を巡る議論がなぜ噛み合わないかの一つの答えとして、どこかで見かけた言葉を借りると「ソフトウェアのOSの違い」が挙げられると思うんだよね。

 

マックとマイクロソフトは互換性がないから、一方のソフトを使用しようとしたら互換性がなくて使用できないよね。まさに、日韓の歴史認識の議論ってこの段階だと思っていて、私たちがマックとマイクロソフトのツールに互換性がないことを常識として理解しているように、まずは、日本人と韓国人のOSが違うこと、つまり、「前提が違う」ということを理解することから始めるべきだと思う。言い換えるなら、お互いが「理解できない相手であることを理解する」ことが重要だと思うんだ。

アジア人で見た目も似ていることが多いから、相手に理解してもらえると頭の片隅でなまじ期待しているところがあると思うんだよね。

 

さいごに

様々な論点があって、こと朝鮮半島については議論が熱くなりがちで、論点もごちゃまぜになりがちだと思うんだけど、この本はそうした肯定派/否定派のどちらかに立つということではなくて、もう少し前提から見直して考えましょうよ、ということを提起していて、非常に勉強になりました。2004年に初版が出版されている本だけど、2020年の今でも当てはまるから、おススメです。朝鮮半島というテーマだけでなく、「何か物事を分析する際のマインドセットがどうあるべきか」について、示唆に富む良書だと思います!!ちなみにページ数も本論は180ページ程度で、筆致も軽快だからすらすら読めます。気付いたら読み終えていました。

 

本当におもしろかった。

 

 

 

 

朝鮮半島をどう見るか (集英社新書)

朝鮮半島をどう見るか (集英社新書)

  • 作者:木村 幹
  • 発売日: 2004/05/14
  • メディア: 新書