Chimpanzee the 38 Parallelの日記

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第4冊目(2):『和解のために―教科書・慰安婦・靖国・独島』(朴裕河著)

 

 

第4冊目『和解のために―教科書・慰安婦・靖国・独島』(朴裕河著

第二章「慰安婦」―「責任」は誰にあるのか

第2章は慰安婦問題についてです。

 

(*全部読んだんですけど、1章(教科書問題)まとめる前に2章書き始めてしまったので、2章を先に投稿することになりました。)

 

とうとう来ました慰安婦問題。著者の朴裕河氏は、日本でも一時期話題になった『帝国の慰安婦』を書いた学者の方で、こちらの本も既に読んだ(約5年前)ので、また後日記事にしようと思います。

 

著者の主張の要約

まずはじめに、現在まで続く慰安婦問題に関し、日韓の和解を阻む問題は何か?何がこの問題をこんなに複雑にしているのか?

著者の主張をまとめると、以下のとおりだ。

  • 強制性の有無というより、むしろ当時の家父長制と植民地支配がそもそもの根源。よって、日本に責任があるといえる。
  • 元慰安婦を支援するはずの団体が原理主義化し、日本政府の対応に対して全く理解を示そうとせず、さらには、元慰安婦が日本からの「償い金」を受け取るという選択の余地を殺した支援団体側の固執と無理解
  • 当時の朝鮮半島内には親が娘を業者に売ることがあったし、仲介業者に朝鮮人もいたし、慰安所を利用した朝鮮人もいた。その点で韓国自身の責任はないのか?(著者のこの論点は『帝国の慰安婦』でも論じられている)
  • 韓国内での元慰安婦に対する差別意識(広く性産業に対しても)

 

 (ただし、本書は2006年に書かれたものに若干の増補を加え2011年に出版されたものであり、第2章では河野談話~2005年頃の慰安婦問題の経過について、アジア女性基金を巡る議論の分析が中心なので、慰安婦問題そのものというよりかは、慰安婦問題解決のために行った支援事業が議論の中心である。その点、ご留意願いたい。)

 

著者の視点:家父長制と植民地支配

では、慰安婦問題を巡る日韓の対立とはそもそもなぜ発生しているのか。

慰安婦問題というと、日韓両政府の主張の隔たりはさることながら日韓の市民の間でも相当意見が分かれる問題であり、日本人からしてみると、「いつまでこの問題を続けるんだ」という感じで見ている人も多いかと思う。

 

この問題に関して、論点としてよく挙げられるのが強制性の有無とそれに伴う日本の加害責任の有無についてだ。

日韓双方の主張・意見を簡単に列挙すると、だいたい以下のようなものが挙げられるだろう(相当ざっくりと分けたが、あくまで対立構造を示すものとして、そこはご容赦願いたい。)。

 

【日本の保守派/右翼ならびに韓国の一部学者】

  • 強制性はなかった
  • 軍や官憲が拉致したというような証拠はない
  • 現代でいう売春と同じで給料も貰っていたのに、何をいまさら
  • そもそも日韓請求権・経済協力協定で完全かつ最終的に解決済み(第2条)

→日本に責任はなく、謝罪する必要もない(日本政府は「慰安婦」に対する責任を否定していない。)。

 

【韓国での支配的な意見及び日本の進歩/左派】

  • 20万人の朝鮮人女性が強制的に連行された
  • 給料はろくに貰えず、搾取されていた
  • 慰安婦として強制的に働かされ、逃げ出すこともできなかった
  • 日韓請求権・経済協力協定締結時には慰安婦問題は問題として議論されていなかったから、この問題は請求権協定で解決した問題ではない

→日本政府は元慰安婦に対して法的責任を負うべき

 

ざっとこんなものだろう。

さて、上記のような論点が大勢を占めるが、著者の主張を理解する上でのキーワードが家父長制だ。

 

著者の主張として非常に興味深い点は、上記のような強制性の有無からではなく、むしろ、家父長制と植民地支配の観点から、日本の責任および当時の朝鮮半島内の人々の責任について述べている点だ。慰安婦がたとえ自由意志で慰安婦になったのだとしても、そこには家父長制に基づく社会構造があり、それがそもそも問題だったとする。

(自由意志で慰安婦になったのだとしても)女性は国家と男性に奉仕すべきものであるとされる、家父長制構造の内でのことだ。慰安所が「公認された」場所であり、「合法的」だったとする彼らの主張は、その「法」が国家と軍のつくった男性のための「法」であったという事実を隠蔽している。(P90)

   また、著者はこうも述べる。

 

彼女たちが、ほかでもない日本の植民地体制下で「戦争」遂行のための道具となった以上、「日本軍慰安婦」とは植民地化の産物であるといわざるをえないのだ。たとえある日突然「強制的に引っ張られて行った」のではないにしても、「慰安婦」問題は依然として「植民地支配」の責任問題として残るのである。(P91)

 

つまり、[戦争遂行→兵隊の士気向上の必要性→兵站としての慰安所設置→「慰安婦」の募集]という構造があったので、これは兵士と同様、戦争行為に加担させられたという点において、国家が「慰安婦」に対して補償を行う必要があるという論理である。

 

 

日本政府の償い案:アジア女性基金

では、日本政府は何もしてこなかったのだろうか?答えはノーだ。そこで議論は、日本政府が設立したアジア女性基金に移る。

 

アジア女性基金とは、「女性のためのアジア平和国民基金」のことである。平たく言うと、河野談話(93年)で「心からのお詫びと反省の気持ち」と表明し、94年に「戦後50年問題プロジェクト」の一環として「償い」を体現するために、日本の政府と民間がお金を出して、「元慰安婦」に対して「償い」を行う、という目的で設立された基金だ。さらにこれには「総理の手紙」も添えられることになった。

 

しかし、これは韓国では国家の責任回避のためのものと理解され、趣旨が理解されることはなかったと著者は述べる。

実際には、表面上は民間基金という形ではあったものの、政府関係者も関わり、募金が不足する場合には「政府が責任をもつ」という点で、日本政府の真摯な姿勢が見て取れる。

 

ここの経緯について著者は以下のように述べる。

償い金を手渡す際には首相の手紙を添えるとされたが、これは和田春樹をはじめとする知識人の要請を政府が受け入れたことで、はじめて可能になったという。いわばこの基金は、「国家」が主体となる「補償」は韓日協定によっていったんなされたため不可能であるとする政府を、民間人が説得にあたり、政府も参加させる方式へと動かしていくなかで成立をみた基金だったのである。(P95)

ということは、日韓請求権協定に基づいて完全かつ最終的に解決済みという日本政府の立場を考慮すると、アジア女性基金は非常に画期的なものだったといえるだろう。

 

しかし、「償い金」は国民の募金から拠出し、政府からは「医療福祉支援事業」に拠出するとしたことが裏目に出た。なぜなら、政府からの法的な補償ではないために国家補償の意味を持たないとして、韓国側の超圧力支援団体である韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)から大きな反発を受けることなったからだ。

 

この補償の形態については、日本国内からも批判の声が出る。つまり、拠出が国会を通したものではないことから、手紙を出してもそれは表面的であり、道義的責任ではなく法的責任をとれというものだった。

これに対し著者は、ドイツのブラント首相がユダヤ人慰霊碑の前でひざまずいた行為を引き合いに出しながら、以下のように評価する。

もとよりこれらの批判は、日本人による徹底的な自己批判として、敬意を表すべきものであった。(中略)だが政治と外交は、形式と儀礼的パフォーマンスによって成り立っている。そう考えれば、日本政府の最高権力者が署名した「お詫びの手紙」という「形式」の存在は、無視できないのではないか。(P103~104)

 

としながらも、基金を巡る日本政府の対応について、以下のように結論付けている。

*( )内は筆者注

(日韓請求権協定と国内政治上の限界も考慮した上で)「次善の策」として「国民基金」をスタートさせたのであれば、そのなかにあっても「道義的」レベルの「福祉」という形に逃避するのではなく、堂々と「国家」もともに補償すると言明し、参与していたならばよかっただろう。そしてそうであったなら、おそらく日本は、出資金額以上の政治的効果をも収められたに違いない。そのような意味では、国会の同意のかわりに「国民基金」を設立した1995年の選択はやはり十分なものだったとはいいがたい。(P104~105)

 確かに理解できないわけでもないが、やはり国内政治的な障害が大きく無理だったであろう。そこを押し通そうとするとそもそも基金の方式が瓦解していたと思う。

 

韓国側の受け止めに問題はなかったのか?

ここまで読んだ感じでは、日本政府が相手の気持ちも推し量らず勝手に滑った感がある。しかし、著者は基金を巡っては、韓国側にも問題があったと主張する。

 それは大きく分けると以下だ。

  • 元「慰安婦」が償い金を受け取るにあたっての意志を尊重しなかった点
  • 元「慰安婦」のおばあさんに最も寄り添うべき支援団体が、自己の目的を達成することに固執したこと
  • 韓国内の歪んだ日本観

 

この基金が始まった際、韓国では「カネでけりをつけようとしている」とか、「懐柔策」などと叩かれる。そして、市民連帯が発足して募金を開始するのだが、日本から国民基金を受け取ったおばあさんは対象から除外されてしまった。さらに、韓国政府と挺対協が支援金を支給したときも、韓国政府は元慰安婦に対して日本政府からのカネを受け取らないことを誓約させたのである。

 

これに対して著者は、韓国政府と挺体協の行為について以下のように問題点を指摘する。

「慰安婦」個人の意思を被害者支援団体という名のもとに統制し、韓国政府から補償を受ける権利を彼女たちから奪い去った、越権行為ではなかったか。誠意と正義感からはじまった「挺対協」の運動は、いつのまにかかつて国家によって被害をこうむった人にとを「国家」にかわって統制する行為となり、「個人」の意志をいまひとたび抑圧したのではなかったか。(中略)「挺体協」関係者が金を受領した人々をさして、「罪を認めない同情金を受け取れば、被害者はみずから志願して赴いた公娼になる」(尹貞玉の発言)と非難したことは、「慰安婦」を支援する彼女たちにすら、「慰安婦」に対する偏見があったことを示すものだ。(P108)

 

まさに、著者の指摘するとおり、これは元「慰安婦」のおばあさんたちを完全に侮辱した行為だったといえるだろう。真におばあさんたちに寄り添うのであれば、当事者であるおばあさんたちが最も満足できる方法をとるのが、最も重要だったはずだ。

 

韓国の中の責任

では、挺体協や韓国政府がそのような行為に出た原因は何だったのか。

これに対して著者は、韓国内に根付く日本への不信感を原因として挙げている。

そして、特に挺体協による、日本政府の責任回避のための基金に決まっているという固執した態度と誤解が日韓間の問題解決に寄与するばかりか、解決をより困難にしていると著者は述べる。

 

さらに、韓国は潔白であり常に被害者であると考える韓国人が多いが、著者は韓国内の問題として当時の朝鮮人にも責任があるという。それは、慰安所に娘を売った大人たちであり、また、それを止めようともしなかった周囲の朝鮮人たちを意味する。

 

元慰安婦の証言からも明らかなように、当時は朝鮮でも娘の身売りはよくあったことであり、様々な理由から娘が売られた。つまり、家父長制によって女性自身による行動選択が男性に比して制限されている状況において、売った側の朝鮮人、傍観した朝鮮人、そして慰安所を利用した朝鮮人兵士にも責任があるということだ。

 

さらに、韓国には「純真無垢な少女が強制的に連れていかれた」という認識が非常に広く行き渡っており、そうした単一的な認識および被害者意識が、実際は多様なケースがあったにも関わらず、当時の朝鮮人女性がどのような経緯で慰安婦になったのか、そして実際の生活や人生はどのようなものだったのかという慰安婦の実像を理解することを妨げていると著者は分析する。

 

この韓国の責任という論点について、著者は以下のようにまとめている。

「強制的に引っ張られて行き」「性奴隷」として過ごしたとのパターン化した「慰安婦」イメージは、韓国に異なる「慰安婦」像を許容しはしない。(中略)周知のように、「慰安婦」問題は、「民族」の問題であるばかりか本質においては「性」の問題であり、「階級」の問題である。現在の日本人が、「日本」人の子孫であるがゆえに彼女たちの不幸に対して責任があるとするなら、当時貧しい彼女たちを「慰安婦」に送り出し、学校や結婚に逃避した結果、貞淑な女性として残ることができた有産階級の子孫であり、朝鮮人募集策に関わった者たちの子孫であり、彼女たちを蹂躙した朝鮮人男性の子孫である韓国人にも、責任がなかろうはずがない。(P123~124)

 

韓国の中の加害性

次に韓国の中の加害性についてだ。

「内鮮一体」のスローガンにもかかわらず、当時の朝鮮人はやはり「臣民」ではなく、真の意味での「臣民」になるために、日本統治に協力し、行く先々で中国人を差別した朝鮮人もいた。著者はそうした歴史的事実を念頭に、加害者と被害者を民族で区分することについて以下のように批判する。

 

民族というものさしで加害者と被害者を画一的に区分することは、そのものさしに含まれない、また別の被害者と加害者を隠蔽する。さらに、民族内部の加害者と被害者の関係を正確にみることを妨げる。(P134)

 

著者がこのように批判する理由は、日本人女性にも慰安婦が多くいたが日本の加害性から日本人慰安婦は問題とされないこと、そして、朝鮮戦争時、米軍部隊周辺に米兵を相手とする慰安所を作った事実はどう説明するのかという問題があるからだ。つまり、米兵相手の慰安所を設置し、政府も公認していた事実は無視して日本だけを責めることが果たしてできるのか?ということだ。

 

また、強制性を否定することは韓国ではタブーだが、それはまさに、売春婦や公娼に対する蔑視が韓国内にあるからだ。そして、韓国内の米軍基地周辺の慰安所は国家が管理している点において、慰安婦と公娼は変わらないと主張した韓国人教授が猛烈な非難を浴びる。しかし、米兵用の慰安所と日本軍慰安所の構造はさして変わらず、そこにおいて、日本と韓国は無意識の共犯関係にある(P137)。

 

さいごに

慰安婦問題は複合的構造を有しているがゆえに、責任の主体を何かに擦り付けることは、それ以外を免罪することになるし、「『政府』と『国家』の補償ばかり主張する声は、そのような複合的な構造を覆い隠す」(P144)と著者は述べる。

 

また、日本政府の対応はやはり十分とは言えないし、より良い方策があっただろうとしながらも、慰安婦問題が日韓請求権協定締結時に「問題化」していなかったため補償を請求する権利があるという主張に対して、そうした主張を封殺していた韓国内の差別意識にも原因があり、忘れてはならないとも著者は述べる。(P146)

 

 

読書感想

この問題は本書では80ページぐらいなんだけど、文字数がすごい多くなってしまった。反省。

私は全くもってフェミニストとかではないけど、著者の主張は興味深くて、ついついたくさん引用してしまった。

アジア女性基金についてだけど、①政策としてのそもそもの限界、②日本政府の広報の下手さの2つが主な失敗要因だと考えている。

①については、スーパー圧力支援団体の挺体協が支援を主導している時点で、韓国内の世論が硬直化かつ言説が再生産されてしまって、そのせいでそもそも基金が有効に作用する余地がなかったと思うんだよね。

だって、ファクトを確認しようとしないし、こういう奴らに限って声でかいし、脳ミソが単細胞だし。当事者である元慰安婦のおばあさんたちの求めることが一番大切なはずなのに、無視するわ脅すわだし。最初は確かにまっとうな気持ちで支援を開始したかもしれないけど、こういう単細胞集団が絶対正義化して、一方的な立場からしか問題を見ないから余計に問題がややこしくなったし、害悪でしかないと思うんだよね。思考回路がアベノセイダーズと全く同じだよほんとに。

極めつけは、挺体協の奴らが慰安婦問題を利用して甘い汁を吸っているから、この問題の解決は挺体協の人たちの食い扶持を無くすことになるし、解決しないと思うんだよね。

 

ちょっと挺体協に対する愚痴が過ぎたけど、日本の国内政治的な側面から見たら、この問題を完全に収められたチャンスは1995年前後だったと思うし、ここで失敗したから、日本政府としても万策尽きた感(2015年に日韓合意するけど)、国民の中では「これ以上何求めるんだよ」感が強まって、嫌韓にもつながったと思うんだよね。

 

他方で、②については、現在もそうだけど、日本政府って本当に広報が下手だと思うんだよね。だから、もっと効果的な広報の仕方はあったと思う。それこそ、テレビ討論みたいな場に積極的に出て説明するとか、韓国国内の誤解に対して日本政府が如何に誠実に取り組んでいるかを、一つ一つ反論っぽい形で粘り強く説明するとか。

 

ともあれ、朴裕河氏の本は偏っていなくて、かつ視点がおもしろいです。さらに付け加えるなら、読者に考える余地を与えてくれるというか。

 

1冊の本の中の1章分なのにコンパクトにまとめられなかった点が少し悔やまれますが、第2章、本当におもしろかったです。そして、非常に勉強になりました!

 

超おすすめ。

 

和解のために-教科書・慰安婦・靖国・独島 (平凡社ライブラリー740)

和解のために-教科書・慰安婦・靖国・独島 (平凡社ライブラリー740)

  • 作者:朴 裕河
  • 発売日: 2011/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)